Drコトーと奈良の事件

 医療制度改革の一環として医局制度が見直され、地方の医師が不足してきているという記事を何度か目にしていました。強制的に地方に派遣されていたものが無くなって、医師の希望に沿って決まるように変われば、医師も都会に集中していまうのは当然の流れです。地方に住むものとして、身の回りの医師が減っていくのは不安だなーと思っていましたが、さらに状況が悪化してきているようです。

2006-10-18

最近の医療では不十分な体制で受け入れる事も非難される時代になっています。義侠心を出して手薄な体制で引き受け、結果として不幸な転帰を取った時には「引き受けた方が悪い」と非難の的になります。「なぜもっと万全の体制の医療機関に送らなかったのか」の厳しい批判です。批判は単なる言葉だけの問題ではありません。莫大な賠償金付きの訴訟が待っています。訴訟が起されればマスコミからのリンチのような社会的制裁が待っています。そんなものを受ければ病院の存亡に関わる事態になりかねませんし、担当した医師は医師生命を断たれてしまいます。

 この記事を読んだあと、Drコトーを見て、またこの記事を読み返してみると、色々考えてしまいます。この記事の流れでいうと、コトー先生はいつ医師生命が絶たれてもおかしくないことになります。そういえば前回のDrコトーシリーズでも、必死に設備の無いなかで頑張ったコトー先生がマスコミに医師生命を絶たれるところでした。ドラマでは孤島ということとコトー先生の人柄等もあり、ハッピーエンドで終わりましたが、必死に悪い環境でも患者を助けようとする医師ほどリスクを背負ってしまう社会では、医師が危険な患者を避けるようになるのも仕方がありません。

 私の住む町でこういう状況を避けるためにはどうしたらいいのかと考えてみました。1つ目は、一定の設備の規模と医師数をもつ病院を、緊急時に中核病院となれるように周辺自治体と協力して(たとえば広域連合など)維持する。

 もう一つは、わたしはどんな組織も外部からの批判なしでは腐敗すると考えていますので、病院にも組織である以上一定の批判は必要です。ですが、批判する対象をきちんと選んでいかなくてはならないと今回の件で感じました。

 今までの病院への批判は、積極的に次の塁を狙っていった憤死も、集中力の欠如からのボーンヘットも区別なく容赦なく批判していました。しかし、この両者はきちんと分けて考える必要があると分かりました。医師・病院を批判するときに、この両者をきちんと分けて考える共通理解を地域社会でいかなければならないと思いました。