小説家への評価

「ローマ人の物語」シリーズに欠けているもの - raurublock on Hatena

 リンク先の文章を読みまして、小説家への評価について日頃から思っていたことを何点か書きたくなりました。

1.○○への視点

 小説家を、○○への視点が足りないという論点で評価するのは無益ではないでしょうか?

 以前佐高信司馬遼太郎への批評で、司馬は庶民への視点が無いと批判していました。ですが、小説の中で何を語り何に重点を置くのかというのは小説家の個性であると私は考えます。限られた文章量の中で、エンターテイメント性を高めつつ書くということは、視点を絞り書くべき所を描写し、省くべきところは省く必要があります。何を書き、何を省くかがその作者の個性です。司馬遼太郎が英雄を書き、藤沢周平が庶民を書くのはその作者の個性です。好みというものがありますので、庶民を書くほうが好きというのはありでしょうが、庶民への視点が無いからダメという話ではありません。

 ただし、学者は違います。あるものについて語るときにあらゆる視点から検証し、推論はさけ確定した事実だけで語る必要があるでしょう。ですが、塩野七生司馬遼太郎も小説家です。学者ではありません。ですが、塩野七生司馬遼太郎を評価するときに、学者に向けたような評価をしている方たちが良く見受けられますが、小説家へのアプローチとしてはいささか見当違いであると思います。

 逆に、学者的でありすぎてエンターテインメント性を損なうようなことがあった場合は、そちらの方が小説家としての欠点といえると思います。

2.作品の営業方針や読者層の問題

 塩野七生司馬遼太郎への批判に、ビジネス書としては相応しくないというものも散見します。ですが、彼らは自分の作品をビジネス書として書いているわけではありません。出版社側が営業努力としてビジネスマン必読という煽りをつけたり、読者側が私はこの本を経営に生かしていますといってみたり、その経営者が経営に失敗したとしても、作品の評価とはなんら無関係です。たまに小説の読者層を問題にする批判的な文章を読んだりしますが、混ぜてはいけないところをごちゃ混ぜにしていると感じます。

3.専門家からの意見

 ミステリーや歴史小説への警察関係者や歴史学者(その道のプロ)からの批評を読む時に感じることがあります。小説家はエンターテイメント性を重視して、多少現実と異なる描写をしたり視点を絞ったりしているために、専門家からみたらおかしな内容であったり、語られていない部分があったりするでしょう。そういった点に対する批評でも、○○という視点からみるとこういう事実もあります。とか、実際はこういう面もありますよという冷静な批評の場合、さすが専門家だなー、歴史の重層性を感じる。こういう面もあるのかと素直に感心できます。ですが、現実ではこんなことはありえない。この点がおかしい、荒唐無稽ですという評価の仕方をする人をみると、何故この人はこんなに大人気ないのだろう。他者を貶めることで自分を高めようとしているのかと勘ぐりたくなります。

 いくら丹念に取材をしても、小説家はその分野の知識の量や正確さでは専門家には適いません。さらに、あえて多少事実と変えて描写している場合もあるでしょう。なので専門家はそういう場合はどんと構えていて欲しいなと思います。

4.楽しめたかどうか

 小説家及びその作品への評価に、学者に対する評価のようなアプローチや読者層などの不純物が混じるのは無益だと思います。

 小説家及びその作品への評価は純粋にそれを読んだ人が楽しめたかどうかだけで評価してほしいです。何を面白いと感じるかはその人次第です。知識量が増えるのが楽しい人もいれば、はらはらどきどきが楽しい人も居ます。感動して泣けるものが一番という人もいるでしょう。その人が読んで楽しめたら、それはその人にとって良い本である。それで良いのではないでしょうか。

追記

コメントを頂いたblues1974さんのブログを検索にて発見しました。私の記事よりも「ローマ人の物語」への深い愛情と知識を感じる文章だったのでリンクを貼っておきます。

http://blues1974.exblog.jp/6325147/