犯罪の善悪と自衛の賢愚は別ベクトルの話

強姦被害から自分を守るために、少しでも意識したいこと。

 この記事のブックマークコメントに否定的な意見が多くてびっくりしてしまいました。


 この記事が言いたいのは、

・強姦は犯罪(善悪的には絶対的に悪)
・でも自衛しないと被害にあってしまう(自衛の必要性)
・強姦は精神的にじわじわと人を殺す(強姦被害者の苦しみ、だから防がねばならない)

という風に私は読みました。


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080215043933

 でも、ブックマークのコメントでは否定的にとらえている方が結構いらっしゃって、なんでだろうと不思議な気持ちになりました。

id:SeisSaguruさん「女に生まれた悲劇に浸る」

 実際に被害にあいそうになったから自衛に気をつけるようになったことをそう言われたら筆者もたまらないでしょう。

id:yuki_19762さん「意識してたって被害に遭うときは遭うよ」

 確かにそのとおりで、実際に被害にあってしまった人にたいしてはそういう考えで接しなければならないと思いますが、この筆者は犯罪の予防行為を薦めているんだと私は思っているので、自衛の努力を否定しちゃってると思うんですよ。どんなに気をつけて泥棒に入られる時は入られるよって意見は確かに正しいけど、防犯対策の話をしているときは違う意味を持ってしまう気がします。自衛のための努力を否定しちゃってますし。意識して自衛した方が犯罪にあう確率は絶対にさがりますしね。

id:chazukeさん「結局「被害者」が悪いって言ってるじゃん。」

 悪いとは言っていないと思います。自衛すべきだといっているのだと。ただ、この筆者さんの意見というか書き方でひとつだけ異論があるのが、「無知でいることは、そしてこんな事態を想像できないことは罪なのだと思った。」って下りです。「罪」ではないですよね。ただ、この筆者は自分が実際に被害にあいそうになって、そこで反省したってことなので、強姦被害者を責める意味合いはあまりないのかなと思っています。

 花岡記事には私も非常に頭にきました。あれは醜悪な意見の見本みたいなものだと思っています。でもそこを離れたら頭を切り替えたいんです。犯罪の善悪論と自衛的な観点からの賢愚は別ベクトルの話です。自衛のためにもう少し気をつけた方がいいよって意見に、それは被害者が悪いってことか!って反応がわっと返ってくる状況は、やさしい人が親身になって子供に忠告したときに「それって被害者が悪いってこと?」という子供が増える事態を招くだけのような気がして心配です。


追記

 一番言いたいのは、元記事の人はこれから被害にあう可能性がある人に自衛をすすめているだけで、すでに被害に遭った人に他意はないんじゃないかということです。

 それと自衛をしたら完全に防げるなどとは一言も言っていません。自衛っていうのは起こる可能性を少しでも少なくしましょうってことですから。実際に被害にあってしまった人を責める意志も毛頭ありません。
 
 たとえば強姦という部分を詐欺や強盗に置き換えたとして、防犯対策や悪徳商法に引っかからない方法をとることを呼びかけることは必要なことではないですか?それに対して、防犯対策をしたら完全に防げるとでもいうの?騙されたり盗まれたりした方が悪いというの?といった反論は土俵が違う反論ではないですかということをいいたいんです。

 花岡記事は、本来米軍との地位協定の問題であったり、沖縄に基地を集中させてしまっているという政治的な問題を「意図的に」本来違うベクトルの話である被害者のしつけの問題と結びつけて自分の思想的な意見に有利にことを進めようとしたことが醜悪だと思いました。そういう意見を被害者やその家族が読む記事に書くという無神経さも信じられません。

 ただ、この元記事の人はそういったことをしているわけではないでしょう?分けて考えませんか?と言いたかったのです。

 

学力別学級もありなのでは?

 競争を望むのは誰か - Arisanのノート

 自分が子供の立場だったらどっちがいいかなと考えてみたんですが、学力別の方がうれしいかなーと思ったので少し考えてみました。

 Arisanさんのいう「自分の好きなことを学びたいという意欲」が、たとえば画家になりたいから絵を描きまくりたいとか、小説家になりたいから本をいっぱい読みたいとか、野球選手になりたいから野球の練習をしたいとかだとします。それを親が許してくれるためには一定の成績を取っていないと許してくれません。親によって納得する成績の基準は違うでしょうけど、ともかくその基準を超えないと好きなことをさせてくれません。

 だから、出来るだけ授業時間で効率よく学習したい。学校の授業をきちんと受けていたら目標点に近い点が取れるのがベスト。それで効率良い授業について考えると、塾で教えていた時の経験から考えても、自分のレベルにあった説明を受けるのが一番効率が良いんですよね。

 その科目について習熟度?が少し遅れている子にあわせて説明しているときは、成績上位の子が死んだ目になっています。ちょっと突っ込んだ説明をしているときは、下位の子は私には関係ない世界の話だという表情をします。

 勉強が進んでいる子は基礎ばかりやられても身にならないのでもう少し応用的な問題をやらせてほしいと思うし、前段階でつまずいている子はわからないものがあるのにさらにその上に進まれてももう手も足も出ません。

 で、授業の効率が悪いから成績にかかわらず塾にいって自分の学力にあった授業を受けなくてはいけない羽目になる。そこで時間を取られて自分の本当にやりたいことが出来ない。これが私が子供だったら一番いやな状況です。

 学校の授業が効率的なら学校外で勉強する量を減らせられる。そうしたら余った時間で自分の好きなことが出来る。山田ズーニーさんの本でも読んで文章の書き方を学んでも良し、絵を描きまくっても良し、素振りに明け暮れてもよし。

 学力別学級は、やり方によっては問題も出てくるかもしれませんが、まずどういう方式にしたら悪影響がすくないか考えてみてもいいのかなと思います。やりようによってはそんなにまずいものでもないのではないでしょうか。

英仏百年戦争

 「傭兵ピエール」や「双頭の鷲」の著者、佐藤賢一さんが書いた「英仏百年戦争」を読みました。これは非常にお薦めです。

 歴史を考える上で大事な視点に、その時代に生きた人たちの意識や常識があります。司馬遼太郎さんが「項羽と劉邦」の一番最初にこう書いています。

「それまでこの大陸は、諸方に王国が割拠し、つまりは分裂している状態こそ常態であるとされてきた。」

 始皇帝が考え出した「皇帝」という存在についても、現代人が持つような皇帝という存在の権威を当時の人達は理解していなかったと描写しています。

 当時の人にとって見れば、中国が統一されるというのは異常自体であり、皇帝という言葉も作られたばかりの新語であり、その存在に対する敬意や畏れを持ちようもないのです。

 ですが、現代人の感覚からすると、皇帝はもう当然のように偉いものですし、中国は統一されている方が常態です。その感覚を最初で修正しようとしているのでしょう。そういう現代人でありながら当時の人間の感覚を想像できるような感性を持てる人を私は尊敬します。

 で、本題です。この「英仏百年戦争」という本は、現代人が持っているイギリスとフランスという国家間の戦争というイメージをぶち壊し、イギリス人という感覚やフランス人という感覚を持っていなかった当時の人たちが、百年という長きにわたる争いの中で、イギリス人やフランス人になっていくさまが見事に描写されています。

 それだけでなく、ジャンヌダルクの時代だけでは分からないそれ以前からの潮流を源流からさかのぼって描いてくれているので、百年戦争というものの全体像がすんなり理解できるようになっています。

 私はこの本を読まなかったら、イギリス王ってフランスにもいっぱい領土を持っていたんだなーという認識から抜け出すことはなかったでしょう。是非読んでいただきたいお薦めの本です。

税源移譲

 地方分権改革により、お金を国が集めて地方に配る方式から地方が直接集めるように変わります。その一環として、所得税から住民税(都道府県民税と市区町村民税を合わせたもの)への税源移譲が行われます。

1.変更点

 個人住民税の税率が一律10%に変更になり、それに対応して所得税率が増減します。

2・変更時期

・サラリーマン・年金生活者の場合

 所得税1月給料差引分から減額になり、住民税は6月分から増額になります。

・自営業者

 所得税は20年3月の確定申告から減額になり、住民税は6月に届く納税通知書分から増額になります。

3.負担はどう変わるか

 所得税の減額と住民税の増額が同時に行われるので、所得税と住民税を足した総負担額は変わりません。

 ただし、定率控除(税額を計算したあとにさらに所得税で20%、住民税で15%の減税措置をしていました)が廃止される分の増額がありますが、その増額は税源移譲とは無関係です。



 サラリーマンは今回の給料分から少し手取りが増えているはずです。所得税の差っ引きが減っているからです。しかし、6月から住民税が増額になりますので驚かないようにしてください。

 自営業者はいきなり6月から住民税がガツンと跳ね上がりますので、ちょっとびっくりされると思います。生活プランが狂わせられちゃうかもしれないので、情報がいきわたるようにしていきたいところです。

追記

 住民税の増額と所得税の減額という言葉を使いましたが、低所得層ではその通りなんですが、高所得層では逆になります。国はとことん取りやすいところから自分が取れるように変更するんだなーと感心してしまいます。


 
 

夕張市への同情的報道合戦の反動が心配です。

 現状では夕張市への報道は同情的な物が多いです。マスコミとしては良いネタなのか同情報道合戦になっています。

 ただ、そうした報道合戦がおさまった時に、今度はその反動で叩きにかかるんじゃないかと危惧しています。マスコミは上げて下げるのが好きですよね?上げ報道がひと段落したときに、夕張市側が隙をみせるとマスコミが襲い掛かりそうで怖いです。財政破綻は自己責任だとか、住民が再建に向けて最初に動いた行動が寄付を求める条例というのはいかがなものかなどの批判が出ないか心配です。

 その上げたり下げたりで報道される側になんらかの被害を与えたとしても、マスコミ側で責任を取るものが出ることはありません。報道される側と報道を見る側が踊らされないように自衛しなければならないでしょう。杞憂だと良いのですが。

小説家への評価

「ローマ人の物語」シリーズに欠けているもの - raurublock on Hatena

 リンク先の文章を読みまして、小説家への評価について日頃から思っていたことを何点か書きたくなりました。

1.○○への視点

 小説家を、○○への視点が足りないという論点で評価するのは無益ではないでしょうか?

 以前佐高信司馬遼太郎への批評で、司馬は庶民への視点が無いと批判していました。ですが、小説の中で何を語り何に重点を置くのかというのは小説家の個性であると私は考えます。限られた文章量の中で、エンターテイメント性を高めつつ書くということは、視点を絞り書くべき所を描写し、省くべきところは省く必要があります。何を書き、何を省くかがその作者の個性です。司馬遼太郎が英雄を書き、藤沢周平が庶民を書くのはその作者の個性です。好みというものがありますので、庶民を書くほうが好きというのはありでしょうが、庶民への視点が無いからダメという話ではありません。

 ただし、学者は違います。あるものについて語るときにあらゆる視点から検証し、推論はさけ確定した事実だけで語る必要があるでしょう。ですが、塩野七生司馬遼太郎も小説家です。学者ではありません。ですが、塩野七生司馬遼太郎を評価するときに、学者に向けたような評価をしている方たちが良く見受けられますが、小説家へのアプローチとしてはいささか見当違いであると思います。

 逆に、学者的でありすぎてエンターテインメント性を損なうようなことがあった場合は、そちらの方が小説家としての欠点といえると思います。

2.作品の営業方針や読者層の問題

 塩野七生司馬遼太郎への批判に、ビジネス書としては相応しくないというものも散見します。ですが、彼らは自分の作品をビジネス書として書いているわけではありません。出版社側が営業努力としてビジネスマン必読という煽りをつけたり、読者側が私はこの本を経営に生かしていますといってみたり、その経営者が経営に失敗したとしても、作品の評価とはなんら無関係です。たまに小説の読者層を問題にする批判的な文章を読んだりしますが、混ぜてはいけないところをごちゃ混ぜにしていると感じます。

3.専門家からの意見

 ミステリーや歴史小説への警察関係者や歴史学者(その道のプロ)からの批評を読む時に感じることがあります。小説家はエンターテイメント性を重視して、多少現実と異なる描写をしたり視点を絞ったりしているために、専門家からみたらおかしな内容であったり、語られていない部分があったりするでしょう。そういった点に対する批評でも、○○という視点からみるとこういう事実もあります。とか、実際はこういう面もありますよという冷静な批評の場合、さすが専門家だなー、歴史の重層性を感じる。こういう面もあるのかと素直に感心できます。ですが、現実ではこんなことはありえない。この点がおかしい、荒唐無稽ですという評価の仕方をする人をみると、何故この人はこんなに大人気ないのだろう。他者を貶めることで自分を高めようとしているのかと勘ぐりたくなります。

 いくら丹念に取材をしても、小説家はその分野の知識の量や正確さでは専門家には適いません。さらに、あえて多少事実と変えて描写している場合もあるでしょう。なので専門家はそういう場合はどんと構えていて欲しいなと思います。

4.楽しめたかどうか

 小説家及びその作品への評価に、学者に対する評価のようなアプローチや読者層などの不純物が混じるのは無益だと思います。

 小説家及びその作品への評価は純粋にそれを読んだ人が楽しめたかどうかだけで評価してほしいです。何を面白いと感じるかはその人次第です。知識量が増えるのが楽しい人もいれば、はらはらどきどきが楽しい人も居ます。感動して泣けるものが一番という人もいるでしょう。その人が読んで楽しめたら、それはその人にとって良い本である。それで良いのではないでしょうか。

追記

コメントを頂いたblues1974さんのブログを検索にて発見しました。私の記事よりも「ローマ人の物語」への深い愛情と知識を感じる文章だったのでリンクを貼っておきます。

http://blues1974.exblog.jp/6325147/

サウジアラビアの若者を見て

 先日NHKのクローズアップ現代で、原油資源で潤っているサウジアラビアでは暮らすのに余りある程のお金を国が国民にばら撒いているので働かない若者が増えていると放送していました。

 資源輸出国が羨ましいです。資源を売りさばくことで国にお金が入ってくる仕組みになっています。それに引き替え売ることの出来る資源のない日本は資源を輸入し、科学技術によって付加価値をつけて輸出する。そのお金でまた資源と食料を買ってくる。せっせと働くしかないんだよなーと、サウジに生まれたかったなーなどと思っていました。

 でもそう考えると、日本という国は付加価値をつけることが出来なくなった時点で飢える国ということです。発展途上国といわれている国も、どんどん教育水準が上がってきています。工場施設の海外移転などによって技術力もついてきているのでしょう。日本は追いつかれたら物が売れなくなります。自国で日本と同じレベルの物を作れるようになったら、資源国の方が安く作れますから。

 資源国は教育水準や労働力の質が下がってしまっても食べていけるので数学力や物理力が各国順位のなかで下がってしまってもたいした問題ではないけれど、日本は並の技術力の国になった時点で飢えてしまうわけなのですからゆとりなどを追求してはいけない国だったんですね。改めて考えてしまいました。なんだか疲れが出る結論です。

 じゃあ文系は問題ないかというと、情報化社会になって膨大な情報に埋もれるようになった状況では、その情報を自分で整理して判断して自分の考えにして発信できるようにならなければいけないでしょう。でもおとなの小論文教室。 - ほぼ日刊イトイ新聞山田ズーニー先生も言っているように、アウトプットする訓練を受けていないので自分の考えをまとめ、きちんと意見を相手に伝える能力が育っていないという問題点があります。

 というわけで、やっぱり教育改革は必要不可欠な状況なのだと思います。ただ、その方向性が抽象的すぎて具体的にどういう改革をしようとしているか見えません。技術力が衰えて国が飢えてしまったり、情報の海に飲み込まれて自分の言葉で話せない国民が大量発生する前に、きちんとした教育を確立する必要がありそうです。教育再生会議の方にはもっと具体的に頑張っていただきたいなと思います。